其ノ四【事態は意外に深刻で】

　―――、午後の始業を知らせるチャイムが鳴り響く。

「‥‥ん‥」

　夢うつつの状態で、かすかに聞こえた予鈴が九龍の覚醒をうながす。

「‥‥しま‥った。寝‥過ごしたな‥‥」

　昼休みに皆守と昼寝をしていた九龍は、ゆっくりと上半身を起き上がらせる。それ

もゆっくりと、隣で寝息をたてる皆守に気を使いながら。居心地の良さに後ろ髪をひ

かれながらも、生来の真面目さから、なんとか教室へと向かう決意をかため立ち上がる。

　バサバサバサッ

　風切り羽根も大きなカラスが舞い降りる。

　よほど人慣れしているのだろう。九龍と目が合っても、ふてぶてしいまでに動じる

事がない。そんなカラスに九龍は、人さし指をその形の良い唇にあてると「静かに」

と合図を送った。まさか鳥類に人の意志が通じるとも思えなかったが、丁度良いタイ

ミングでカラスはくるりと背を向け離れてゆく。

　カラスを見送ると、視線を下に移す。杞憂であったのだろう。昼寝の帝王皆守は、

その規則正しい寝息は乱れる事なく続いている。

　皆守の寝顔に微笑みかけると、ゆっくりと歩き出す。足が重く感じるのは、この場

を離れたくないという思いによるものではなく、肉体的な疲労によるところが大きい

だろう。午前中に保健室で休んだ時に一旦楽になったはずなのだが、また徐々に、ま

るで何かに蝕まれているようなという表現がピッタリだ。

「なんなんだろう‥‥いったい」

　ふぅ‥と、溜め息をひとつ。

　再び教室へと向かう。

「休講‥‥、だったらいいんだけど」

　授業に遅れてしまった気まずさから、ついつい不謹慎な台詞が口をついて出た。

　階段を降りていると、辺りが授業中とは思えないほど騒がしい。そのほとんどは、

他愛もない雑談であったが、一際大きな男子生徒の声が聞こえてきた。何やら興奮ぎ

みな彼らの声はよく聞こえる。

「おいッ一年生の奴が、ツチノコを廃屋の方で見たってよ」

「まぢかよッ？」

「あァ。何でもすげェ高く飛び跳ねながら、逃げたそうだ」

「見に行ってみようぜッ」

　３Ｆの踊り場まで来たところで、教室のドアが勢いよく開き、中から複数の生徒が

駆けて行く。

　彼らの後ろ姿を見送り、辺りを見渡せば、騒がしいのは階段近くの３−Aだけでは

ないようだった。他のクラスからも、次々と生徒達が出て行く。

「よぉッ、九龍」

　道行く生徒の中、自分のクラスメートから声をかけられる。

「あれ？午後はみんな休講なのかい？」

「そうそうッ、何かあったらしくて休みなんだ」

「へっへー、遅刻じゃなくなってよかったなッ」

　口々にからかわれるが、とりあえず事実なので笑うしかなかった。

「んじゃ、俺達はちっと廃屋まで行ってくるぜ」

　じゃあな、と彼らは慌てて駆けて行った。

　それからしばらくすると、教室を出て廃屋へ向かう生徒と、教室内で雑談するもの

と分かれ辺りは静かになる。

　静かになった踊り場で、さっと緊張感が走る。

「ふッ」

　寡黙な声の方向へゆっくりと振り返る。

「先刻は邪魔が入ったな」

　この現代には、不釣り合いなほどに時代掛かった喋り方は、午前中に会った真里野

という生徒だった。白髪、隻眼、木刀を帯刀した黒の袴姿に、九龍の緊張感はほんの

一瞬の間しか持たなかった。

　まるで間違った知識を持った日本かぶれな外国人を、日光江戸村にいきなり放り込

んだ時ぐらいに喜んでいる事は、穏やかに微笑んでいる外見からはまったくと言って

いいほど想像出来る者はいない。だからこそ、真里野は用件を続ける事ができた。

「拙者の用件は、簡単至極。

　先刻もいったと思うが、今宵、《墓》の奥にて手合わせを願いたいのだ。

　お主の噂を聞くにつけ、是非とも、その腕前が見てみたくなってな。

　もし、お主の腕前が噂通り、本物であるならば、待ち受ける化人と罠を越えて拙

者の下まで辿り着ける筈。どうかな？拙者の申し出を受けて貰えぬか？」

「ああ、もちろん」

　真里野の申し出に即答する九龍。微笑んでいる表情に変わりはなかったが、その視

線は若干、熱を帯びていた。

「ならば、手合わせをして貰おうか」

　不敵に笑う真里野。

　どうやら九龍の内心、「わーい、サムライと決闘だー」という不純な動機は伝わら

なかったらしい。

「では、今宵、暮六ツ半（くれむつはん）――――夜の七時に《墓》の奥で待っておる。

別に仲間を連れてきても構わぬぞ？これは死合い故、お互い正々堂々と悔いの残らぬ

ように遣り合おうではないか」

　自分を見据えたまま、静かに佇む九龍の態度を肯定と見なし、満足した真里野は、

「それでは、御免」

と、背を向けその場を去って行く。そんな真里野の後ろ姿を、カッコイイと感動しな

がら見送る九龍だが、ふと、ある心配事に一瞬我に返る。

「どうやってみんなを誤魔化そう‥‥」

　この天香學園に来てからというもの、ずっと当たり前のように仲良くなった生徒と

《墓》の探索をしている九龍。先ほど真里野は「別に仲間を連れてきても構わぬぞ？」

とは言っていたが、正々堂々と死合いをしようと申し出てきた相手に複数で行くのは

嫌だった。

　本来であれば、了承すると見せ掛けながらも最悪の事態を予想し、あれこれと策を

巡らすはずなのだが、真里野の態度は真剣そのもので策を巡らす気にはならなかった。

　かなり甘い考えなのだが、「サムライは嘘をつかない」という間違った偏見と憧れ

が後押ししたという事はいうまでもない。

　さて、そんな訳で探索にはひとりで行きたいのだが、その為には絶対にバレないよ

うにしなければならない。その中でも、特に皆守と八千穂には気をつけなばならなかった。

　皆守の場合、誘わなかった時は勝手に部屋を占領され、あれこれ荒らされている。

その行為はまるで、留守番をさせられて拗ねる犬のようであったが、そんな感情を九

龍は露ほども気付いていない。『相手が自分に寄せる好意』というものに疎い彼は、

（うーん、ひとりで行ったなんてバレなければ何とかなる‥かな）

などと暢気に考えていた。

（問題は明日香か‥‥）

　皆守と違い、表現が分かりやすくストレートな八千穂は、九龍でも拗ねていると一

目で判る。

　問題が、どうやって誤魔化そう？から、どうやって機嫌を直そう？に変化したとこ

ろで、背後から元気のよい声で呼ばれる。

「尚樹クンッ」

　あまりのも良すぎるタイミングに、ガラにもなく表情が一瞬凍りついたままで振り

返ってしまう。

「どうしたの？真剣な顔しちゃって」

　いつも微笑んでいる九龍が、それ以外の表情をすることは珍しく、八千穂は驚く。

「あッ、わかった。もしかして、あれでしょ？ツチノコの事を考えていたとか？」

　瞬時に言い訳を考えていた九龍だが、都合の良い解釈にこれ幸いとばかりに便乗した。

「あー‥‥、バレた？」

　口数は少なく、出来る限り自然に言葉をつづる。

「やっぱり？そうなんじゃないかって、思ったんだ」

　へへと、嬉しそうに鼻の下をこする八千穂の姿に良心がちょっぴし痛む。

「月魅や皆守クンは止めておけっていうけど、捕まえないまでも見てみたいよね〜。

なんてたって、謎の生物だし‥‥。謎を知りたいと思うのは、人間の本能だと思わない？」

「そうそう。（UMAはどうでもいいけど）謎って放っておけなくてね」

「うん。そういう気持ちって誰かを好きとか嫌いとかいう感情と同じじゃないかな」

（好き‥とか、嫌い‥とか‥‥）

　八千穂の何気ない一言が、心の中のある部分に引っ掛かる。

　九龍がある事を考えようとした時、その行為は突然中断された。

「泥棒だァァァ！！誰かそいつを捕まえてくれッ！！」

「ん‥‥？」

　廊下全体に響き渡る声に振り向く八千穂。

「そいつ、天香の教師じゃないぜッ！！」

「きゃァァァッ！！」

　男子生徒の告発を口火に、辺りは騒然となる。

「先生じゃないって‥‥？あッ、もしかしてこの前、ヒナ先生がホームルームでいっ

ていた不審者かな？」

　不審者に目星をつける八千穂の脇を、何者かがすり抜ける。

「ちょっと、ゴメンよ。お嬢ちゃん」

「きゃッ！！」

「ハロー。ん？」

　八千穂の脇をすり抜け損なった不審者と目が合ってしまう九龍。

「少年、君はいつぞやの―――、」

　相手はうろ覚えだったようだが、あの軽い口調に探偵という職業（絶対嘘だ）に似

つかわしくないド派手な衣装は、異星人騒動で出会った『宇宙刑事』もとい、鴉室　

洋介＜アムロ　ヨウスケ＞だった。そして九龍にとっては憎き‥‥‥、

「あ、ブランデーッ！」

　はっと、思わず口に手を当てる九龍。

（マズッ！？）

　先日、九龍の部屋で起こった事件。鴉室を見た瞬間に思い出し、つい恨み言を口に

してしまう。一瞬焦るが、

「へ？ぶら‥‥‥」　

「おいッ、こっちだッ、階段を下りてったぞッ！！」

　まるで八千穂の言葉を遮るかのような、絶妙なタイミングで声があがる。

「まッ、マズイッ！！じゃあな、少年、バーイッ」

　他の生徒に見つかるのがマズイのか、それとも九龍に会った事がマズイのか、それ

は鴉室本人にしかわからないのだが、先程よりも慌てて駆け出して行った事は確かで

ある。

「そいつを逃がすなッ！！」

　生徒がどんどんと集まってくる。

「尚樹クンッ」

　八千穂の声に力強くうなずく。

「うんッ、追いかけよう！！そうだ、これ持ってて」

　走り出そうとする九龍に手渡されたそれは‥‥、

「き‥‥金属バット」

「不審者が襲い掛かってきたらそれを使うといいよ。とにかく、行こッ」

　こんなものをどこに持っていたのだろうと、人として当然の疑問を口にする間もな

く八千穂は走っていってしまう。九龍は、呆然となりながらも本来の目的を思い出し、

八千穂のあとについて鴉室を追いかける。

　慌てて階段をかけ降りると、きょろきょろと辺りを見回す八千穂。

「どっちに行ったんだろ？」

　すると、

「あッ、あそこッ！！走って追いかけないと逃げられちゃうよ」

　目ざとく見つけた鴉室を指差す。

「逃がすかッ！」

　この前の怒りがおさまらない九龍は、勢いよく走り出す。

（え‥‥？）

　その時、廊下に並ぶ扉のひとつが開き、中から誰かが出てくる。

「ええっと、まずはＤ組から本を回収して……、」

「月魅、危ないッ！！」

「え‥‥？」

　予想もしない突然の出来事に、勢いよく走る九龍は止まる事が出来ずにぶつかって

しまう。

「きゃァァァッ！！」

　もつれあうように床に倒れる二人。

「‥‥‥‥‥」

「‥‥‥‥‥」

「ちょっと、大丈夫、二人とも？」

　慌てて駆け寄る八千穂だが、

「あ〜ッ！！逃げられちゃうッ！！尚樹クンッ！！いつまでも倒れてないで―――

月魅は、あたしが見てるから早くあいつを追いかけてッ！！

　あッ！！そこに落ちているの尚樹クンがいつも持っている物だよね？ぶつかって

落ちたんじゃない？」

　クラクラする頭を押さえながら、落ちている物の中からH.A.N.Tと『救急キット』

を拾うと鴉室を追った。

　廊下の行き止まりまで来ると、迷わず左側にある扉を開けた。

　人間は追いかけられると、利き手とは反対の方向へ逃げる習性がある為だ。鴉室は

右利き。左の軸足を中心に、曲がりやすい方‥‥つまり、左へと人は無意識にいくよ

うにできている。

　扉を開け、ゆっくりと中に足を踏み入れる。そこは使われていない教室で、机や椅

子が雑然と積まれていた。

　視線を動かすと、ふとある物が目につく。

　近づき拾い上げたそれは、鴉室が落としたのだろうか『ニトロ剤』だった。

（まったく‥‥。危ないな）

「だ〜れだッ？なんつってな」

　突然視界が暗くなる。目を覆うそれは温かく、手で目隠しをされている事がわかる。

「おっと、動くなよ？騒がれると面倒なんでな。どうやら、こっちに追って来たのは

君ひとりか。中々、いい勘をしているじゃないか。ここを抜け出すまで、ちょっとだ

けつき合ってもらおう。安心しな。痛い思いはさせないから」

　沈黙を肯定と受け止めたのか、鴉室は安心する。だが、その相手の口角が吊り上がっ

ている事など、後ろにいる鴉室には伝わるはずもなかった。

「へ？」

　思わず間の抜けた声をあげてしまった。だがしかし、それは仕方の無い事かもしれ

ない。

　今まで大人しくしていたと思った相手が、急に視界から消えてしまったのだから。

　そしてあろうことか、しゃがんだ姿勢から、しなやかに身体を反転させると思いっ

きり蹴り上げられるなどとは夢にも思わないだろう。

「ぐはッ！！」

　吹っ飛び、床に倒れ込む鴉室。不幸中の幸いというべきか、積み重なる机の山には

かろうじて突っ込む事にはならなかった。それは、仏心などというものではなく、蹴

り上げた瞬間に感じた違和感の所為であった。

「うく‥‥、鳩尾に‥‥。くォらァァァ！！何すんじゃいッ！！ったく、なんつ〜馬

鹿力だ。そんなに、力いっぱい蹴るこたないだろ？」

　本当の所、九龍の中で鴉室への怒りといものはそんなに大したものではなかったの

だが、その場の勢いというか、先程の自分の事を忘れているかのような言動に腹を立

てていたのだ。

　その証拠に、

「愛の鞭♪」

　などと冗談すら言える余裕があるのだから。

「いや、愛の鞭とかいわれてもだな……。俺には、そういう趣味はないし―――」

　ほんのりと頬を染めながら蹴られた鳩尾ではなく、口元に手を当てながら呟く。

「って、何いわせんじゃいッ！！」

　十分ノリノリな鴉室の態度に気を良くしたところで、閉めたはずの扉が開く音がし

た。

「そいつが、校内で目撃されたっていう不審者か？」

　けだる気な声にラベンダーの香り。

「離れていろ。後は、俺が引き受ける」

（おお、なんかカッコイイぞ甲太郎）

　などと、九龍は暢気に心の中で拍手を送っていた。

「お〜、君はあの時の無気力高校生君」

（‥‥ふぅん。どうして甲太郎の事だけ覚えてるのさ‥‥）

　先程から他人行儀な鴉室の対応が、九龍は気に入らなかった。

（まったく。さんざん人の部屋で無銭飲食しておきながら）

　もう少し強く蹴っても良かったかなと思いはじめていたが、そんな不吉な思いとは

関係なく事態は進行していく。

「ん？何だ、あの時のおっさんじゃないか」

　うわぁ‥、あと３年すると甲太郎におっさん呼ばわりされるのかな？とちょっぴし

悲しくなる実は２５歳の《宝探屋》九龍であった。

「誰がおっさんだ、誰が」

「何してんだよ、こんな日中の校内で‥‥。一目につかないようにどっかに潜んで調

査するだの何だのいってなかったか？」

　気まずそうに頭をかきながら弁解する。

「いや、そうなんだが‥‥。調べたい場所があったんで、生徒が別の事に気を取られ

ている間に調べようかと」

「別の事に気を？」

（ああ、成る程ね）

　ようやく九龍は事の真相に辿り着く。

　ツチノコ‥‥ね。上手く考えたものだと半ば呆れながら感心する。

「あァ。ツチノコ騒動―――中々、名案だろ？」

「おっさんが噂を広めたのか？」

「まァな。思った以上に騒ぎが大きくなっちまって、俺自身、驚いてるんだが」

　學園の怪談――『三番目のツチノコ』は、思った以上に生徒の関心を引いてしまっ

たようだが、それも仕方の無いことのように思えた。未知の生物、UMAが出たとなれ

ば野次馬根性で見に行こうとする生徒も多いだろう。けれど「捕まえれば願いが叶う」

という部分が一番のポイントだったのではないだろうか。この閉鎖された學園内で抑

圧される、生徒達の無意識の欲求の現れのようだった。

「ちッ、人騒がせな話だ」

「あのな。俺だって―――、」

「そんな事より、早く逃げた方がいいんじゃないか？じきに、ここを捜しに教師や生

徒が来るぜ？」

「見逃してくれんのか？」

　驚いたのか、鴉室はぱっと皆守の顔を見上げた。

「別に、おっさんが捕まろうが捕まるまいが、俺には関係のない話だ」

「‥‥‥」

　ドライな皆守の台詞に、束の間喜んだ鴉室はガックリと肩を落とす。

　頑張れ宇宙刑事！とこっそりエールを送る九龍。

「それに、《生徒会》や教師連中に事情聴取されるのもかったるい事この上ないしな」

　もっともな理由である。

「お前も、見逃してやってもいいと思うだろ？」

（ふぅ‥。仕方がない）

　内心しぶしぶながらも、ゆっくりうなずき肯定する。

「以外と話がわかるじゃないか。俺はてっきり反対するもんだと思っていたがな」

（え‥‥‥‥？）

　皆守の台詞にも違和感を覚える。

（以外と話がわかる？てっきり反対？？）　

　先程から何かがおかしい。それとも自分は、そんな風に思われていたのだろうかと

考え込む九龍。

「いや〜、うんうん。君たち若者の意見は良くわかった。そんなに俺の事が好きだと

は‥‥」

　鴉室が下らないことを言っているが、今はそれどころではない。きっと自分の代わ

りに皆守がツッコんでくれるだろうと思ったが、ツッコムにも値しないらしい。

「‥‥‥‥」

　沈黙したままだ。

　しばし訪れる静かな雰囲気。それに耐えきれなくなったのか、

「じゃ、諸君。縁があったら、また会おうッ。またな、ベイビー」

　胡散臭い台詞を残しながらも足早に去って行く鴉室。

「まったく‥‥、とんだトラブルメーカーだぜ。ただでさえ、肥後をそそのかしたっ

ていう謎の男の件でゴタゴタしている時に‥‥。それじゃ、もう俺は行くぞ？ダルい

んで、今日は早退する事にしたんだ。じゃあな」

（え‥ちょっと待ってッ。何か冷たくない？甲太郎）

　声には出さず、じぃっと見つめてしまう。

「何で、涙目になってんだよ。本当にお前おかしいぜ？そこの鏡で自分の顔みて良く

頭を冷やすんだな」

（おいおいおい‥‥どうなってんだよ。ったく‥‥）

　まるで雨の中、捨てられた子猫が「連れてってくれないの？」とばかりに見つめて

いるようだった。その目は、姿形はまったくの別人のはずなのだが、彼の良く知る人

物にそっくりで、内心動揺してしまいつい冷たい台詞を吐き出してしまう。

　そんな、そっけない皆守の台詞に、悲しくなりながらも鏡を覗く。

（え‥‥？）

　本日何度目かの単語を心の中で呟く。

「ん？どうしたんだよ。変な顔をして？」

　汚れた鏡はぼんやりとしか姿を映さないが、まばたきし、もう一度よく覗いてみる。

しかしそこには、大きな丸眼鏡に硝子の髑髏のイヤリングをした少女の、ポカンと口

を開けた姿が映っていただけだった。

（えーと、とりあえずお約束の「頬をつねる」ってやってみようかな‥‥）

　信じられない出来事が起こった時の古典的対処法。

　小さい頃、「自分の意識がある夢」を見た時に（もちろん悪夢だが）、早く夢から

覚めたかった九龍は、痛みで覚醒しようと頬をつねってみたことがあった。さすがに

本当の夢の中だけあって、全然痛くなかったのだが‥、

（痛ッ‥‥って、痛いし‥‥‥）

「おい‥‥、何やってんだ？」

　九龍の背筋に、冷たい汗が流れた。そして、ほんの数瞬の間に、心の中に在る膨大

な単語の中から「諦め」という二文字を選びだす。

『古人曰く‥‥‥‥‥』

　まぎれもない自分の口から、彼女からいつも聞いている言葉が、彼女の声で紡ぎ出

される。

「どうかしたのか？」

「‥‥‥‥‥‥‥」

「何、鏡見て固まってんだよ？」

　とりあえず固まるしかないであろう。

「さっきのおっさんにどこか怪我でもさせられたのか？おいッ、七瀬？」

（やっぱり七瀬なの‥‥か‥‥）

　先程からの違和感の謎が解けてスッキリ♪どころではなく、本当に泣きたい気分に

なっていた。

　鴉室を蹴り上げた時の違和感‥‥。妙に足が軽いはずだ、スカートをはいていたの

だから。それに鴉室の他人行儀な話し方。自分の外見ではなかったのだから‥‥。

「う‥そ‥‥」

　鏡から視線を外した、七瀬の外見をした九龍に見つめられ、思わず後ずさる皆守。

「うわ〜〜んッ」

　いきなり泣き出したかと思うと、勢い良くしがみつかれて動揺する。

「ッな！？」

「甲太郎〜ッ、何でかわからないんだけど七瀬の外見になっちゃってるんだようッ。

うわ‥あ、まさかさっき廊下でぶつかった時に入れ替わったのかな？いや、そんな事っ

てありえる？夢なら覚めて欲しいんだけど、夢じゃないみたいだし‥‥。も〜何がな

んだか‥‥。七瀬の外見だけど‥‥私なんだ、尚樹なんだよ‥‥」

　感情が爆発したのだろうか、矢継ぎ早に説明というには全然まとまっていない話を、

皆守にしがみついたまましていた。九龍はいつになく冷静さを欠いていたが、それも

仕方のないことだろう。

　まさか自分の身が誰かと入れ替わってしまったら‥。冷静でいられる人間はいるの

であろうか。

「‥‥っはァ‥‥ッ」

　勢いよくしゃべりすぎて苦しくなったのだろう、肩を上下させながら下を向く。

「お前が七瀬じゃない？どういう意味だよ？おかしな事いい出しやがって‥‥。ノイ

ローゼだのストレスだのそういう話なら瑞麗にでも相談するんだな」

　相談者本人はいたって真面目なのだが、いともあっさり、冷たく突き放されてしまう。

「ちょっと‥甲太郎‥」

　なおも、信じてもらおうと近づこうと一歩右足を動かすと、

（カチャリ）

　ポケットに何か入っていることに気付く。

（あれ‥？）

　取り出してみると、それは《書庫室の鍵》と《司書室の鍵》だった。

「何だ、その鍵は？いつも、そんなもんをポケットに入れてんのか？」

「えっと、だから違う‥‥」

　九龍の言葉を遮るように、チャイムが鳴る。

「ん？五時限目の授業が始まる。俺は早退するからいいが、お前は早く授業に戻った

方がいいんじゃないか？これからはせいぜい不審者には気をつけろよ。じゃあな」

　去って行く皆守の後ろ姿を見ながらしばし呆然と佇むが、

「あンの、馬鹿ッ‥‥なんで信じてくれないんだよッ！！」

　拳を震わせながら、白くなるまで思いっきり握りしめる。

　信じていた人間に裏切られ、先程の悲しみと同じくらいの怒りが込み上げてくる。

「馬鹿ッ‥‥」

　何が何でもこの非現実的な事実を信じさせてやる！と意気込むが、とりあえず瑞麗

先生の所へ行くという案は採用することにした。もしかしたら、あそこに行けばもと

に戻るのではないかというかすかな希望を胸に、部屋を後にした。

　保健室の前まで来ると、意を決し、扉を開ける。

「入りたまえ、九龍だろ？」

　その言葉に一瞬喜ぶ九龍。しかし長いキセルを片手に、優雅に振り向く中国美人の

形のよい眉が、九龍を見た途端に歪む。

「ん？誰かと思えば、七瀬ではないか―――」

　その言葉にガックリと肩を落とし、うなだれる七瀬の姿をした九龍。

「間違えてすまなかった。おかしいな‥‥、九龍の氣を確かに感じたのだが。まァ、

いい。私の勘違いか。どうした？もう授業は始まっている時間だが‥‥。具合でも悪

いのか？」

　普通、授業の合間に保健室に来れば具合が悪いといものだろう。

　けれどあえて「具合が悪いのか？」と聞くところから、ここにはよほど肉体的に具

合の悪い生徒たち以外も来ることが伺えた。臨床心理師（カウンセラー）という肩書

きは伊達ではないようだった。

「‥‥‥‥。勘違いじゃないですよ、瑞麗先生」

　喉の奥から、かろうじて声を絞り出し単語にするその姿はとても弱々しかった。

「‥‥九龍」

　ポツリ、ポツリとゆっくり事情を話しはじめる九龍。

　先程の皆守に説明していた時とは違い、順序良く整理して話をしていた。

「身体が入れ替わった？」

　一通り事情を説明し終わった九龍は、ゆっくりとうなずいた。

　心に溜めていたものを吐き出した所為か、保健室に来たばかりの頃の弱々しい雰囲

気は無くなり、瑞麗を見つめるその瞳には冷静さが戻っていた。　

「では、七瀬の姿を持つ君は九龍　尚樹だというのか？」

（なるほど‥‥。やはり、私がさっき感じた九龍の氣は勘違いではなかったという訳か）

「はい、ただ見た目が変化しただけというものではないと思います」

　その証拠にと、ポケットから鍵を取り出して見せる。

「これは七瀬が大事にしている《書庫室の鍵》です。このように持ち物も違っていま

すので、やはり変化ではなく入れ替わったのだと思います」

「ふむ、とても興味深い現象だ。私の祖国である中国に伝わる道教の教えでは、魂魄

―――つまり、霊もそれを包む肉体も、氣という同じ物質から成り立っていると考え

られている。君は、霊と肉は同じ物だと思うか？それとも異なる物だと思うか？」

「西洋では、霊は肉を超越した存在で、肉体はその霊の器でしかないと解釈されてい

ますが‥‥、私は同じだと思います」

「そうだな、私もそう思っている」

　九龍の答えに満足するように、切れ長の目を笑みの形に細める。

「霊と肉だけではなく、世の摂理や事象のことごとくも同じように氣によって成り立

ち、万物は、その氣の流れの中で隆盛を繰り返しているのだと。つまり、氣が病めば

霊も肉も病み、氣が枯渇すれば、死に近づく

　この氣の流れの思想が、人体における経絡であり、大地における風水と呼ばれるも

のだ。東洋と西洋だけを見ても霊と肉の概念は様々だ。だが、共通していえる事は霊

と肉は結びついたまま、永久不変ではないという事だろう。氣が他と交じり合う――

―。霊が肉体を離れる―――。憑依、霊媒、生まれ変わり（リーインカネーション）。

このような言葉を見ても、霊と肉は、非常に流動的な土台の上に存在するとみていい」

　長い説明が続く中、ようやく核心に近づきつつある。

「君の身に起こっている事は興味深い現象ではあるが、理解不能な現象ではない。まァ

、逆にいえば、君たちの身体が元に戻る事も可能だと私は思っている訳だ。わたしの

いっている事がわかるな？七瀬―――いや、九龍」

　九龍は内心、別の事態のことも考えていた。それは最悪ともいえるマイナスな可能

性であったが、けしてそうならないという可能性はゼロではない。物質という概念か

ら考えた場合、一度変化してしまったものを元に戻すには、変化させた時以上の膨大

なエネルギーを要するばかりか、中には‥‥‥けれど、それは現時点での話。自分の

考えに自ら異論をとなえる。現時点でも戻せなくとも、もっと科学を発展させれば‥

‥元に戻せないこともない。きっと‥‥、その方法はあるはずだから。

（ふふッ―――）

　さすがカウンセラーと、心の中で呟く。保健室に来ても、元に戻ることはなかった

が、その代わりに冷静さを、絶対に元に戻してみせるという情熱を取り戻すことが出

来たのは非常に大きな収穫だった。

「はい、何としてでも元に戻る方法を探します」

　そう宣言した瞳には、もう一片の迷いも見当たらなかった。

「ふッ、そうやって、前向きなのが君のいいところかもしれない」

「そうですよ、何なら成績表の特記事項に書いていただいてもいいんですよ」

「それは残念。生憎とその仕事はヒナ先生のものだ」

　しばし冗談を交え、笑い合う二人。

（顔色が良くなったな‥）

　九龍の外的な変化に安堵する。

（やはり、君は強い）

　嬉しくなる気持ちを押さえ、アドバイスする。

「そうだな‥‥。まずは、君の身体と入れ替わった七瀬に逢ってみる事だ。入れ替わっ

た時と同じ方法を試せば、あるいは元に戻れるかもしれない。七瀬を探してみるんだ

な。捜している間に、もしかしたら七瀬も君のように保健室に来るかもしれないが、

そうしたら、すぐに知らせるから安心したまえ。それともうひとつ―――」

　先程までの穏やかな雰囲気は息を潜める。その変化を感じ取った九龍に緊張が走る。

「この事は、あまり人には話さない方がいい。君を―――九龍　尚樹を狙っている者

が、この學園にはいるようだからな。何故、君が狙われなければならないのか‥‥そ

の理由は、あえてきかないが、君の身体を借りているのが七瀬だと分かれば、今まで

様子を見ていた者たちも襲い掛かって来ないとは限らない。七瀬のためにも、私と君

だけの秘密にしておいた方がいいだろう」

　七瀬の命を預かることはかなりのプレッシャーだが、それに対して、過信でも悲観

でもなく、

「はい、秘密にします」

　七瀬の事を思って、ただそれだけを考えて答えた。

「ああ、七瀬の事を思うなら、そうしてやれ」

　瑞麗は、多少苦しそうに眉が歪ませるが、すぐにそんな表情を消し去る。

「とにかく、早く、七瀬を捜し出したまえ。まずは、それからだ。何か変化があった

ら、いつでも来るといい。再　見（ツァイツェン）―――」

　瑞麗は部屋から出て行く姿を見送ると、ふぅ‥と吐息を漏らした。

「まったく‥‥。君という人間は、さっそく大きな試練に見舞われている‥‥」

　座っていた椅子をくるりと反転させると、窓から見える蒼い空を見上げる。

「君なら、絶対に乗り越えられる‥‥‥。負けるなよ‥‥‥九龍」